アメリカ合衆国中西部のミネアポリスは、Princeの生まれ故郷として、またBob Dylanがミネソタ大学に滞在したこととして有名です。Princeは現在もミネアポリスの音楽界に影響を与えています。例えばPrinceが経営しているGlam Slamは黒人にかなり人気のあるライブハウスです。またかつてPrinceが出演したというFirst AvenueはNBAのTimberwolvesのホームコートのTarget Centerの目の前にあり、とても有名なライブハウスです。このFirst AvenueはPrince主演の映画のPurple Rainにも出てきます。一方Bob Dylanが最初に出演したライブハウスのThe Ten O'clock Scholarはミネソタ大学の近くにあったということですが、今はハンバーガーのBurger Kingになっており、がっかりです。しかしBob Dylanがミネソタ大学に来た初めの数カ月を暮らしたSigma Alpha Muや、1960年の始めに下宿したGray's Drug Storeの建物はまだミネソタ大学の近くに残っています。
さてこれから私が1994年春から1995年春まで過ごしたミネアポリス近郊のライブやコンサートの思い出を書き綴ってみようと思います。 私が一番多く通ったのは、The Blues Saloonという単純な名前のライブハウスです。ここはミネアポリスのとなりのセントポールの北にあり、周囲は静かな住宅街です。ライブハウスに行く客は当然車を使いますが、近くには駐車場がないので、住宅街に路上駐車をします。少しでも遅れて行くと、かなり遠くに車をとめて、長い距離を歩かなくてはいけません。もっとも夜もそんなに怖いところではありませんが、ミネソタの寒い冬に車を路上駐車をすると、エンジンが暖まるまでにとても苦労をします。このThe Blues Saloonではいつも200名程度の規模のライブですが、観客の80%程度は白人です。ステージの前は広いスペースが空けてあり、ここで観客が踊れるようになっています。The Blues Saloonで印象深かったのはFenton RobinsonとJohnny 'Clyde' Copelandでした。Johnny Copelandのライブは1994年8月13日、Fenton Robinsonのライブは1994年11月5日でした。特にFenton Robinsonの彼独特の声を聞いたら、昔Vividからでていたレコードをよく聞いていたことを思い出しました。Johnny Copelandはいつもの"TEXAS"のギターストラップで登場してきました。彼は心臓移植の手術を受け、その後1997年7月3日に永眠しました。詳細はLiving Bluesの1997年9月号に彼の追悼記事として掲載されています。
さてGlam Slamですが、私は一回だけ行きました。Glam Slamはミネアポリスのダウンタウンにあり、夜はあまり雰囲気の良くないところです。私が行ったのは1994年10月16日のTyrone Davisのライブ($20)でした。私がいつも通っているライブハウスは白人が多く、また洋服も気軽なものでしたが、このGlam Slamは500人程度の聴衆のうち、99%が黒人で、残りは数人の白人とあとはたった一人の黄色人でした。黒人はみなドレスアップしており、いつも私が通っているライブハウスとはだいぶ違った雰囲気でした。もっとも黄色人の私に対して他の黒人は特に気にしている様子はありませんでした。開演は19:00からでしたが、前座が多く、お目当てのTyrone Davisが登場したのは23:00過ぎでした。それまでには多くの聴衆が酔いつぶれ、また殴り合いの喧嘩もあるという状態でした。Tyrone Davisはとても元気で、黒人の女性から熱狂的な黄色い声援を受けていました。私はずっと立って見ていたために疲れたので、25:00ごろには近くの駐車場に車を取りに行きました。そのあともまだまだライブは続いていました。 ミネアポリスのダウンタウンの少し西にあるBunker'sでは、Otis Clayのライブを1994年12月17日に見ました。最近はあまり日本に来ないOtis Clayですが、まだまだ元気です。ライブハウスは100人程度の聴衆で、白人と黒人の割合は6:4程度で、やや白人が多いようでした。内容はブルースはあまりなく、かつて日本でのコンサートで歌っていたようなソウルが多く、最後は聴衆総立ちのディスコ状態となっていました。演奏した曲は"Nickel and Nail"、"Precius Precious"、"Reach Out、Trying to Live My Life"、"I Qualified"、"Love and Happiness"、"I Testify"などで、ほとんどの曲は彼のLive In JapanのCDで聞くことができます。ライブは2部構成で、休憩時間にはOtis Clay自身がCDを売っていました。私は"The Gospel Truth"を買い、サインをもらってきました。日本に来る予定を聞きましたが、その予定はないようで、そのうちに行きたい、とだけ言っていました。またこの時にPercy Strotherというブルースマンが私に声をかけてきて、日本に呼んでくれないか、と頼んできました。このあたりのライブハウスには日本人はほとんどいないので、私を日本から来た音楽業界の人と勘違いしたのでしょう。いろいろ話をしましたが、結局、彼が持っていた"A Good Woman is Hard to Find"というCDにサインをもらって買いました。Percy Strotherは2005年5月に58歳でなくなりました。 ミネソタには年に一度、州のお祭りのState Fairが開催されます。ミネアポリスとセントポールの間には、State Fair専用のグラウンドがあり、お祭りの時には州全体から各種の馬、牛、豚が集まり、またジェットコースタなどが臨時に設置され、遊園地もできます。コンサートも何回か開催され、私は1994年9月4日のB. B. KingとLittle FeatとDr. Johnのジョイントコンサートに行きました。会場は自動車レースをするような野外会場ですが、あいにく当日は雨だったので、合羽を着て17:30の開演から4時間程度スタンドにじっと座っていました。1つのバンドが1時間程度のコンサートをやり、最後はやはりB. B. Kingです。彼のコンサートが終了したら、花火が打ちあがってお祭りも終わりです。しかしこの顔ぶれでチケットが$16とは信じられません。 次はThe Rolling Stonesについてです。ミネアポリスではThe Rolling Stonesが来るというは一種のお祭りで、テレビも新聞も大騒ぎでした。チケット売り出しの日は早起きして、売り出し開始時間の9:00前にTicketmaster(日本のチケットぴあのようなもの)の前に並びましたが、すでに200人以上並んでおり、電話予約に急遽変更しました、しかし状況は日本と同じで電話もつながらず、そのときはチケットの購入をあきらめました。期待せずに夕方にTicketmasterにもう一度行ってみたら、幸運にも1階席がまだ売れ残っていました。これは私が1枚のチケットしか購入しなかったからです。アメリカではコンサートに一人で行くような奴はいないので、席がひとつというには、売れ残ってしまうようです。このコンサートはVoodoo Loungeの全米ツアーで、チケットは1枚$50でした。コンサートはミネアポリスのダウンタウンの東にあるメトロドームで1994年12月11日に行われました。メトロドームはMLBのTwinsとNFLのVikingsのホームグラウンドです。6万人程度の観客席は当然満員でしたが、アメリカ人の出足は遅く、20:00に始まった前座のSpin Doctorのときにはもちろん、The Rolling Stonesのコンサートが始まってからもぞろぞろと観客が席に向かっている状態です。コンサートが始まる前に、アリーナ席にVikingsのクオータバックのWarren Moonが登場したときには、皆が拍手を送っていたのが、変に印象深かったです。コンサートが終わってThe Rolling Stonesの3人だけのメンバーのあいさつがありましたが、あらためてベースのBill Wymanが抜けたことを実感しました。 Eaglesの再結成コンサートもありました。いつもの通り私はTicketmasterで「Best Seatを1枚下さい」と言いましたが、チケットの値段がいつもの数倍の$100だったので、とても慌てました。クラシックのコンサートでも$50を越えることはないので、アメリカで$100のコンサートは異常です。とにかくチケットは1枚購入して、コンサート当日を待っていましたが、メンバーの一人が病気でコンサートは延期になってしまいました。しかし延期された日時は、私の日本への帰国予定日の後なので、残念ながらチケットは返却し、払い戻しを受けました。そういう訳で、私はミネソタではHotel Californiaを聞くことはできませんでした。コンサートはNBAのTimberwolvesのホームコートのTarget Centerで行われる予定でした。 ちなみに妻は私と一回も一緒にコンサートには行きませんでした。これは私と妻の趣味が全く違うからです。妻はミネソタオーケストラのコンサートや、カナダ国立バレーなどに行っていました。ミネソタではクラシックファンもかなり音楽を楽しめると思います。ここには有名なミネソタオーケストラがあり、チェロで有名な磯村氏がいます。それに私が帰国した後ですが、大植氏が指揮者として呼ばれました。私たちの家族がミネソタに滞在している時には磯村氏のご家族には大変お世話になりました。 |